邪馬台国論(謎が解けた!)
2010年05月20日
邪馬台国(後漢書) or 邪馬壱国(魏志倭人伝)
これは魏志倭人伝や後漢書に記述されている呼び名で漢字はおそらく当て字だろうと思われます。
日本では、一般にこれらを(やまたい)とか(やまいち)と読んでいるのですが若しくは(あまたい)(あまいち)と読むのが正しいのかも知れません。(後述)
混迷を極める邪馬台国の所在地論争・・・
果てしなく続いていますが、この論争、江戸時代から続いているようで明治・大正期にピークを迎え、世代交代しながら今尚、決着を見る事無く一世紀以上に渡り論戦が続けられている事になります。
この邪馬台国論は古くから九州説・大和説に絞られていたようですが最近は畿内説とか似た地名などがあると、こじ付けのように我こそは我こそはと言った感じで候補地?が次々と現れ、挙句は海外説まで出てきたりとか・・・
結局、再び九州説と大和説に二つに絞られたようですが結論までには至らず・・・
その背景には欠史八代の天皇さんがいたり邪馬台国の歴史が日本の歴史書に記されていなかったりとかで混迷を極める要因にもなっています。
何となく宝探しにも似たような気もしてくるのですが、宝探しなら宝の無い所をいくら掘っても何時まで経っても宝物は出て来る筈はなく探す場所を変えて見ようかとなる訳ですが・・・。
ところが邪馬台の場合はそうは行かず理論を立てて辻褄合わせをしなくてはなりませんね!!
なにせ国史の解明が懸かっている訳ですからね~でも余り理論立てにばかり心血を注ぎ過ぎると全体が見えなくなったりする事もあろうかと思いますので一度リセットするのも一案かと・・・
古代では北九州と近畿に文明が集中していた事は確かです。
従って多くの考古学者や研究者の先生方は、その概念の基で調査および研究をなされて来たので九州か畿内かになるのですね。
行き詰った時は既成及び固定した概念を取り払う・・・これは基本中の基本ではあるのですが・・・
しかし学者さんたるもの、おいそれとご自分の主張・持論を曲げる訳には参りません・・・
そこで私!!
迷探偵Dreamが、直感推理で決着を付けましょうぞ・・
な~んて冗談ですが・・・
でも、なかなか当たるんでゴザイマスよ、Dreamの直感は!!
最近、邪馬台国近江説の本が相次いで発行されました。
そこで、まさか近江が思われた方は・・・もしかして何か概念に捉われているか先入観をお持ちなのかも・・・
知れませんよ~?(笑)
近江説を聞いたとき私はと言いますと・・・確かにときめきに似たようなものを感じましたが驚きもしなかったし何の不思議も感じずに「やっぱり」かと思いました。
その「やっぱり」は何故かと言いますと・・・この近江に古代の王朝があった事は昔より語り継がれ?
多くの人が暗黙の内に知っているのですね!!
或いは信じていると言った方が正しいのかも知れません、勿論、具体性はないですが、おそらく語り部さんも居たであろうし水面下で伝説のように囁かれ伝承されて来ているのだと思います。
私も子供の頃、何かの行事で神職の方がお話をされるのを聞いていて、子供心ではありますが直感的に「何かがあるんだ!!」と漠然と感じていた事を覚えています。
その何かは、やがて・・・ 「高天原」 (たかまがはら)である事が分かりました。
高天原・・・この高の字は冠辞なので天の原(あまのはら)と呼んでも差し支えないだろうと思います。
(高天原は九州や大和にもあるそうですが神代話であれば何処にあっても不思議ではないのですが・・)
余談ですが・・私は、母の実家に高天原の神々が描かれた画が残っていてよく見ていました。
「お伊勢はお多賀の子でござる」
そうです・・・高天原とは伊勢神宮のご祭神、天照大神や弟の須佐ノ男命、その両親である多賀大社のご祭神、伊邪那岐大神や伊邪那美大神など多くの神々の坐す天上の世界とされています。
しかし、実際には高天原は天上の世界などで有り得る筈はなく、地上の歴史である筈なのですが、この地上の歴史は見事に封印されて来たかの如く不明です。
今では伊勢神宮の内宮の御祭神は卑弥呼であり外宮は壱与(台与)と云うのが大方の学説となっていて天照大神=卑弥呼で或る事は疑う余地はなく年代も一致しているようです。
つまり高天原が邪馬台国であるのですね。
滋賀県にある多賀大社の御祭神は天照大神のご両親である伊邪那岐大神と伊邪那美大神である事はよく知られているのですが。
みなさんご存知ですか?
古くより多賀大社の御祭神、伊邪那岐大神・伊邪那美大神のご両神は建国の父、建国の母としても古くから深く崇敬され厚く信仰されている事を・・・
(参考:淡路に幽宮(かくれのみや)の伊弉諾神社があります。)
中には伊邪那岐天皇と仰ぐ人もいるようです。
実は私はこの事が凄く不思議で疑問に思っていました。(皆さんお分かりですよね・・)
ですが神代の話なのか歴史なのか全く雲を掴む様な話なので今日までこの疑問を追求する事なく棚上げしたまま今日に至っている事に気が付きました。
でも、その疑問や謎は今は他界されている或る郷土史研究家が昭和41年に上梓されている古書と出合った事で概ね私の疑問や謎が解けてきました。
この研究家は近江野洲で銅鐸が発見されたことによりこの地に高度な古代文明が存在していた事を突き止められ魏志や後漢書・晋書など念入りに照らし合わせ解析され考察の上に考察を重ねられ邪馬台国の所在地に留まらず、単に論を説くのではなく、あらゆる面の謎を解き明かされ結論を導き出しておられます。
一般的に遺跡などがあって理論立てして行くのは比較的に楽であろうと思われるのですが、銅鐸など限られた出土品と文献と実地検証のみで解明されている、この研究家の天才的な達眼と、直向きな研究姿勢ご努力に只々頭が下がる思いで感服している次第です。
「魏志」
倭女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥手呼(ひみてこ)と素より和せず、倭、戴斯烏越(もいしうえつ)等を遣はし、相攻撃の状を説く。塞曹掾史張政等を遣はし、因って詔書黄幢を齎らし、仮に難升米を拝し、檄を為して、之を告偸す。
その結論は女王国(邪馬台)は其の南にある男王国(狗奴国)は女王国に属さず、男王国が強かったらしく女王国は度々悲鳴を上げ再三に渡り魏へ救援の使いを出していたが、ついには男王国の(狗奴国)に滅ぼされた・・・と結論を出されています。
「魏志」
『其の南に狗奴国(きなこく)あり、男子王たり、其官に狗(きの)古制卑狗(ひき)あり。女王に属せず。
都より女王国に至る。万二千余里。』
女王国の南で、男王国であり、独り女王国に属しない狗奴国こそ大和朝である。
・・・と結論付けられています、其の根拠は女王国を仮に北九州や大和とした場合その南に勢力を持った国は見当たらない事です。
「魏志」
南して邪馬壱国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月、官に伊支馬(いきま)有り、次を弥馬升(みまし)と曰ひ、次を奴佳鞮(なかで)と曰ふ。七万余戸ばかり。
これが有名な女王の都する邪馬壱国であり、但馬から水行十日は、敦賀に入ったもので、次の陸行一月は水行なら十日陸行なら一月という意味で、但馬と近江の間、丹波を経て陸路は整備されて居ったものであろう。
乃ち女王の都するところ正しくは近江の野洲郡か蒲生郡にあったものと思う。
・・・と記されています。 (ちゃんと魏志倭人伝に書かれてあるやん!!)
では何故、歴史から葬り去られてしまったのだろうか・・・?
(これは宿題にしときましょうか?)
つづきはコチラ
↓
これは魏志倭人伝や後漢書に記述されている呼び名で漢字はおそらく当て字だろうと思われます。
日本では、一般にこれらを(やまたい)とか(やまいち)と読んでいるのですが若しくは(あまたい)(あまいち)と読むのが正しいのかも知れません。(後述)
混迷を極める邪馬台国の所在地論争・・・
果てしなく続いていますが、この論争、江戸時代から続いているようで明治・大正期にピークを迎え、世代交代しながら今尚、決着を見る事無く一世紀以上に渡り論戦が続けられている事になります。
この邪馬台国論は古くから九州説・大和説に絞られていたようですが最近は畿内説とか似た地名などがあると、こじ付けのように我こそは我こそはと言った感じで候補地?が次々と現れ、挙句は海外説まで出てきたりとか・・・

結局、再び九州説と大和説に二つに絞られたようですが結論までには至らず・・・
その背景には欠史八代の天皇さんがいたり邪馬台国の歴史が日本の歴史書に記されていなかったりとかで混迷を極める要因にもなっています。
何となく宝探しにも似たような気もしてくるのですが、宝探しなら宝の無い所をいくら掘っても何時まで経っても宝物は出て来る筈はなく探す場所を変えて見ようかとなる訳ですが・・・。
ところが邪馬台の場合はそうは行かず理論を立てて辻褄合わせをしなくてはなりませんね!!

なにせ国史の解明が懸かっている訳ですからね~でも余り理論立てにばかり心血を注ぎ過ぎると全体が見えなくなったりする事もあろうかと思いますので一度リセットするのも一案かと・・・

古代では北九州と近畿に文明が集中していた事は確かです。
従って多くの考古学者や研究者の先生方は、その概念の基で調査および研究をなされて来たので九州か畿内かになるのですね。
行き詰った時は既成及び固定した概念を取り払う・・・これは基本中の基本ではあるのですが・・・
しかし学者さんたるもの、おいそれとご自分の主張・持論を曲げる訳には参りません・・・
そこで私!!
迷探偵Dreamが、直感推理で決着を付けましょうぞ・・

な~んて冗談ですが・・・

でも、なかなか当たるんでゴザイマスよ、Dreamの直感は!!

最近、邪馬台国近江説の本が相次いで発行されました。
そこで、まさか近江が思われた方は・・・もしかして何か概念に捉われているか先入観をお持ちなのかも・・・
知れませんよ~?(笑)
近江説を聞いたとき私はと言いますと・・・確かにときめきに似たようなものを感じましたが驚きもしなかったし何の不思議も感じずに「やっぱり」かと思いました。
その「やっぱり」は何故かと言いますと・・・この近江に古代の王朝があった事は昔より語り継がれ?
多くの人が暗黙の内に知っているのですね!!
或いは信じていると言った方が正しいのかも知れません、勿論、具体性はないですが、おそらく語り部さんも居たであろうし水面下で伝説のように囁かれ伝承されて来ているのだと思います。
私も子供の頃、何かの行事で神職の方がお話をされるのを聞いていて、子供心ではありますが直感的に「何かがあるんだ!!」と漠然と感じていた事を覚えています。
その何かは、やがて・・・ 「高天原」 (たかまがはら)である事が分かりました。
高天原・・・この高の字は冠辞なので天の原(あまのはら)と呼んでも差し支えないだろうと思います。
(高天原は九州や大和にもあるそうですが神代話であれば何処にあっても不思議ではないのですが・・)
余談ですが・・私は、母の実家に高天原の神々が描かれた画が残っていてよく見ていました。
「お伊勢はお多賀の子でござる」
そうです・・・高天原とは伊勢神宮のご祭神、天照大神や弟の須佐ノ男命、その両親である多賀大社のご祭神、伊邪那岐大神や伊邪那美大神など多くの神々の坐す天上の世界とされています。
しかし、実際には高天原は天上の世界などで有り得る筈はなく、地上の歴史である筈なのですが、この地上の歴史は見事に封印されて来たかの如く不明です。
今では伊勢神宮の内宮の御祭神は卑弥呼であり外宮は壱与(台与)と云うのが大方の学説となっていて天照大神=卑弥呼で或る事は疑う余地はなく年代も一致しているようです。
つまり高天原が邪馬台国であるのですね。
滋賀県にある多賀大社の御祭神は天照大神のご両親である伊邪那岐大神と伊邪那美大神である事はよく知られているのですが。
みなさんご存知ですか?
古くより多賀大社の御祭神、伊邪那岐大神・伊邪那美大神のご両神は建国の父、建国の母としても古くから深く崇敬され厚く信仰されている事を・・・
(参考:淡路に幽宮(かくれのみや)の伊弉諾神社があります。)
中には伊邪那岐天皇と仰ぐ人もいるようです。
実は私はこの事が凄く不思議で疑問に思っていました。(皆さんお分かりですよね・・)
ですが神代の話なのか歴史なのか全く雲を掴む様な話なので今日までこの疑問を追求する事なく棚上げしたまま今日に至っている事に気が付きました。
でも、その疑問や謎は今は他界されている或る郷土史研究家が昭和41年に上梓されている古書と出合った事で概ね私の疑問や謎が解けてきました。
この研究家は近江野洲で銅鐸が発見されたことによりこの地に高度な古代文明が存在していた事を突き止められ魏志や後漢書・晋書など念入りに照らし合わせ解析され考察の上に考察を重ねられ邪馬台国の所在地に留まらず、単に論を説くのではなく、あらゆる面の謎を解き明かされ結論を導き出しておられます。
一般的に遺跡などがあって理論立てして行くのは比較的に楽であろうと思われるのですが、銅鐸など限られた出土品と文献と実地検証のみで解明されている、この研究家の天才的な達眼と、直向きな研究姿勢ご努力に只々頭が下がる思いで感服している次第です。
「魏志」
倭女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥手呼(ひみてこ)と素より和せず、倭、戴斯烏越(もいしうえつ)等を遣はし、相攻撃の状を説く。塞曹掾史張政等を遣はし、因って詔書黄幢を齎らし、仮に難升米を拝し、檄を為して、之を告偸す。
その結論は女王国(邪馬台)は其の南にある男王国(狗奴国)は女王国に属さず、男王国が強かったらしく女王国は度々悲鳴を上げ再三に渡り魏へ救援の使いを出していたが、ついには男王国の(狗奴国)に滅ぼされた・・・と結論を出されています。
「魏志」
『其の南に狗奴国(きなこく)あり、男子王たり、其官に狗(きの)古制卑狗(ひき)あり。女王に属せず。
都より女王国に至る。万二千余里。』
女王国の南で、男王国であり、独り女王国に属しない狗奴国こそ大和朝である。
・・・と結論付けられています、其の根拠は女王国を仮に北九州や大和とした場合その南に勢力を持った国は見当たらない事です。
「魏志」
南して邪馬壱国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月、官に伊支馬(いきま)有り、次を弥馬升(みまし)と曰ひ、次を奴佳鞮(なかで)と曰ふ。七万余戸ばかり。
これが有名な女王の都する邪馬壱国であり、但馬から水行十日は、敦賀に入ったもので、次の陸行一月は水行なら十日陸行なら一月という意味で、但馬と近江の間、丹波を経て陸路は整備されて居ったものであろう。
乃ち女王の都するところ正しくは近江の野洲郡か蒲生郡にあったものと思う。
・・・と記されています。 (ちゃんと魏志倭人伝に書かれてあるやん!!)

では何故、歴史から葬り去られてしまったのだろうか・・・?
(これは宿題にしときましょうか?)

つづきはコチラ
↓
天照大神と(弟)須佐ノ男ノ命とが対峙したと云われる「天の安河」を多くの人が野洲川と比定されているように野洲の古名は「八洲」「弥進」「益須」「安」であった事が絵図に描かれています。
因みに・・・
近江とは近淡海の略で、近江の国は「阿麻の国」・・らしい事。
近江の古名は・・
「天の原」または「阿麻水(あまみ)の国」・・・らしい事。
淡海は阿麻水の訛りである事など。
天の高市とある・・・天の原に日本一の大市が開かれていたことから女王の都するところ阿麻市であると記された・・とあります。
阿麻市が→邪馬壱であるのかも・・・
今、私の目の前には・・・
毎日、天市が開かれ賑わう七万戸余の古代近江の大都市帝都 『高天原』 邪馬台国が見えて来ました。
伊勢遺跡(守山市)・・・今この遺跡こそが邪馬台国ではないかと言う説があります。
そして各地を転々としたという伊勢神宮の可能性も考えられますが魏志に出て来る邪馬台国と伊勢遺跡は円周上に正確に8度づつずらし最終的に計算上30になる予定の祭殿跡など極めて符号しています。
「魏志」
一女子を立て、王と為す。卑弥呼と曰ふ。鬼道に事へ、能く衆を惑はす。
王と為りてより以来、見る者ある少し。卑千人を以って自ら侍す。唯男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ、居処に出入す。
宮室楼観、城柵厳設、常に人あり、兵を持して守衛す。
私見では、伊勢遺跡はほぼ邪馬台国に違いないだろうと思っています。
そして仮にそうでなかったとしても女王卑弥呼の邪馬台国はこの近江の地である事には、いささかも変わらず間違いなく近江の地の何処かに遺跡があると確信しています。
花崗岩地帯のこの近江盆地は真砂が広大な沖積平野を作っていて未だ未だ多くの遺跡が埋まっている可能性は多分にあります。
或る人は古代近江王朝は第5次が穴穂の宮で第6次が大津の宮で第7次が紫香楽の宮だと言います。
すると、それよりも前に4つも王朝があった事になりますが、私は多くても2つではないかと考えています。
伊勢遺跡が邪馬台国だとしても、いきなり伊勢遺跡が出現したとは考えにくく小規模でも伊勢遺跡の下敷きになったものがある筈と考えるからです。
それにしても、気になるのが伊勢遺跡よりも200年も古い下之郷遺跡・・極めて国際的な要素を持ったこの遺跡の位置づけが不思議に思えてなりません。
王朝ができるには、それなりの背景と素地が必要だと考え滋賀の地を少し調べてみると、この地には十分過ぎるほどの条件が備わっている事が分かりました。
動物たちが水を求めて水辺に集まって来るように、豊富な水を湛えた琵琶湖と広大で肥沃な大地に現代の東京に情報も人も全てが集まるように、この近江に人々が集まり棲みつき文化、交流、交易も盛んになり必然的に王朝も自然発生的に生まれたのではないかと考えます。
それこそ権力を狙った王朝ではなく純粋で神聖な正に神々の坐すところであったかも知れません。
私は、琵琶湖周航の歌に滋賀の都とあるのは、決して大津京や穴穂の宮などを指しているのではなく、それらを含む幻の都を歌われているものと解しそのように感じていました。(勝手にですが)
径百歩余の卑弥呼の冢・・・
それにしても卑弥呼は一体どこに眠っているのだろうか・・・
<あとがき>
この記事、邪馬台国論はブログでは核心部分までは書き切れませんでした。
何れHPなりでまとめて見たいと思っておりますが各論的な部分については追い追いと綴って行きたいと思います。
因みに・・・
近江とは近淡海の略で、近江の国は「阿麻の国」・・らしい事。
近江の古名は・・
「天の原」または「阿麻水(あまみ)の国」・・・らしい事。
淡海は阿麻水の訛りである事など。
天の高市とある・・・天の原に日本一の大市が開かれていたことから女王の都するところ阿麻市であると記された・・とあります。
阿麻市が→邪馬壱であるのかも・・・
今、私の目の前には・・・
毎日、天市が開かれ賑わう七万戸余の古代近江の大都市帝都 『高天原』 邪馬台国が見えて来ました。
伊勢遺跡(守山市)・・・今この遺跡こそが邪馬台国ではないかと言う説があります。
そして各地を転々としたという伊勢神宮の可能性も考えられますが魏志に出て来る邪馬台国と伊勢遺跡は円周上に正確に8度づつずらし最終的に計算上30になる予定の祭殿跡など極めて符号しています。
「魏志」
一女子を立て、王と為す。卑弥呼と曰ふ。鬼道に事へ、能く衆を惑はす。
王と為りてより以来、見る者ある少し。卑千人を以って自ら侍す。唯男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ、居処に出入す。
宮室楼観、城柵厳設、常に人あり、兵を持して守衛す。
私見では、伊勢遺跡はほぼ邪馬台国に違いないだろうと思っています。
そして仮にそうでなかったとしても女王卑弥呼の邪馬台国はこの近江の地である事には、いささかも変わらず間違いなく近江の地の何処かに遺跡があると確信しています。
花崗岩地帯のこの近江盆地は真砂が広大な沖積平野を作っていて未だ未だ多くの遺跡が埋まっている可能性は多分にあります。
或る人は古代近江王朝は第5次が穴穂の宮で第6次が大津の宮で第7次が紫香楽の宮だと言います。
すると、それよりも前に4つも王朝があった事になりますが、私は多くても2つではないかと考えています。
伊勢遺跡が邪馬台国だとしても、いきなり伊勢遺跡が出現したとは考えにくく小規模でも伊勢遺跡の下敷きになったものがある筈と考えるからです。
それにしても、気になるのが伊勢遺跡よりも200年も古い下之郷遺跡・・極めて国際的な要素を持ったこの遺跡の位置づけが不思議に思えてなりません。
王朝ができるには、それなりの背景と素地が必要だと考え滋賀の地を少し調べてみると、この地には十分過ぎるほどの条件が備わっている事が分かりました。
動物たちが水を求めて水辺に集まって来るように、豊富な水を湛えた琵琶湖と広大で肥沃な大地に現代の東京に情報も人も全てが集まるように、この近江に人々が集まり棲みつき文化、交流、交易も盛んになり必然的に王朝も自然発生的に生まれたのではないかと考えます。
それこそ権力を狙った王朝ではなく純粋で神聖な正に神々の坐すところであったかも知れません。
私は、琵琶湖周航の歌に滋賀の都とあるのは、決して大津京や穴穂の宮などを指しているのではなく、それらを含む幻の都を歌われているものと解しそのように感じていました。(勝手にですが)
径百歩余の卑弥呼の冢・・・
それにしても卑弥呼は一体どこに眠っているのだろうか・・・
<あとがき>
この記事、邪馬台国論はブログでは核心部分までは書き切れませんでした。
何れHPなりでまとめて見たいと思っておりますが各論的な部分については追い追いと綴って行きたいと思います。
(尚、コメント頂いた場合すぐにお返事が出来ない場合もありますので悪しからずご了承下さい。)
Posted by Dream at 19:00│Comments(4)
この記事へのコメント
こんにちは〜! Dreamさん・・・
いやいや、近江の歴史探求、ほんとうに素ばらしい(拍手)(拍手)
(拍手)〜♪ 歴史は「勝者の側」から語られる”と云うのはその通りですね(笑)しかし、何時の時代にも弱者の側から真実を残そうという・・(ヘソマガリ)(笑)が必ずいるもので そこに歴史の奥を
探求する喜びがあるのですよね〜、一つ一つの事実を確認しながら、
推理から始まり仮説としての真実を積み上げて行く作業は 大変な努力のいることと思います・・疲れられたら(笑)どうかそよ風吹く我がブログのほうに・・・(笑)余計に疲れるって〜(笑)
もっと、もっと読ませてください。楽しみにしています
いやいや、近江の歴史探求、ほんとうに素ばらしい(拍手)(拍手)
(拍手)〜♪ 歴史は「勝者の側」から語られる”と云うのはその通りですね(笑)しかし、何時の時代にも弱者の側から真実を残そうという・・(ヘソマガリ)(笑)が必ずいるもので そこに歴史の奥を
探求する喜びがあるのですよね〜、一つ一つの事実を確認しながら、
推理から始まり仮説としての真実を積み上げて行く作業は 大変な努力のいることと思います・・疲れられたら(笑)どうかそよ風吹く我がブログのほうに・・・(笑)余計に疲れるって〜(笑)
もっと、もっと読ませてください。楽しみにしています
Posted by 風
at 2010年05月21日 18:36

こんばんは!
Dream邪馬台国近江説!!説得のある内容を興味深く拝見させていただきました^^
専門的に勉強され、もしかしてDreamさんは古代史研究家ではないんですか?
パソコン打つ時Dreamさんの指はピアニストのように動くのでしょうね!!
幾つか疑問もありますが、それはいずれ・・・・
邪馬台国の位置がこれだけ魏志倭人伝と一致しているのに、いまだに箸墓古墳が有力候補地です。S41年に郷土史家の説がどうして広がら無かったのでしょうか?
それから 古代王朝・銅鐸・高天原・・もう少し知りたいですね~^^;
話は全然違いますが、先日安曇野と安曇川の話題、風さんとされてましたが、多賀大社の伊邪那岐大神と信州に伊那市・上伊那郡・下伊那郡がありますが伊那が入っています~(笑) それと郷里に麻績神社(おみじんじゃ)がありますが 「おみ」は近江では・・・ふと一人で関連づけニンマリしている所です~(^-^ゞ
いろいろ伺いたいのですが、また整理して落着きましたらお尋ねしますm(__)m
Dream邪馬台国近江説!!説得のある内容を興味深く拝見させていただきました^^
専門的に勉強され、もしかしてDreamさんは古代史研究家ではないんですか?
パソコン打つ時Dreamさんの指はピアニストのように動くのでしょうね!!
幾つか疑問もありますが、それはいずれ・・・・
邪馬台国の位置がこれだけ魏志倭人伝と一致しているのに、いまだに箸墓古墳が有力候補地です。S41年に郷土史家の説がどうして広がら無かったのでしょうか?
それから 古代王朝・銅鐸・高天原・・もう少し知りたいですね~^^;
話は全然違いますが、先日安曇野と安曇川の話題、風さんとされてましたが、多賀大社の伊邪那岐大神と信州に伊那市・上伊那郡・下伊那郡がありますが伊那が入っています~(笑) それと郷里に麻績神社(おみじんじゃ)がありますが 「おみ」は近江では・・・ふと一人で関連づけニンマリしている所です~(^-^ゞ
いろいろ伺いたいのですが、また整理して落着きましたらお尋ねしますm(__)m
Posted by パル
at 2010年05月21日 22:50

風さん、こんにちは~♪
はいはい!!(ヘソマガリ)のDreamでございますよ~(笑)
でも、迷探偵Dreamの直感推理・・・バッチリでしょ!!(^^)v
なかなか面白いもんだと結構ストレス解消にもなって今、痛快な気分です。
(ほんまかいな)(>.<)y
それから風さん、この間の近江を考えるで近江の豪族でお息長氏と和邇氏、
渡来系と書きましたが、安土城考古博物館の方に教えてもらったのですが、
息長氏と和邇氏は違うとの事でした。
訂正です。(__)ペコリ
急に暑くなって来たので又、そよ風求めてさまよいたいと思ってます。^^
はいはい!!(ヘソマガリ)のDreamでございますよ~(笑)
でも、迷探偵Dreamの直感推理・・・バッチリでしょ!!(^^)v
なかなか面白いもんだと結構ストレス解消にもなって今、痛快な気分です。
(ほんまかいな)(>.<)y
それから風さん、この間の近江を考えるで近江の豪族でお息長氏と和邇氏、
渡来系と書きましたが、安土城考古博物館の方に教えてもらったのですが、
息長氏と和邇氏は違うとの事でした。
訂正です。(__)ペコリ
急に暑くなって来たので又、そよ風求めてさまよいたいと思ってます。^^
Posted by Dream
at 2010年05月22日 18:25

パルさん、こんにちは~♪
にわか勉強で有名なDreamは・・・?
ハイ!にわか古代史研究家をやってます。ナンテ(笑)
Dreamはパソコン速く打てないのですよ~^^;
プログラマーとかだったら速く打てないとダメですが・・・そうではないので、
まぁ~ええっか!!・・・・と思ってます。
やはり箸墓古墳が有力候補地ですか?
纏向は三輪山の稜線がきれいで古墳も多くあって、それに箸墓古墳も誰の
墓かも不明なんですね・・・
郷土史家の書はタイトルが悪いですね~
重みはあるかも知れないですが一般受けはしませんね!!
ハイッなんなりと聞いてください・・・ウッ嘘です~(汗)
なんせ臨時の古代史研究家ですので・・・^^;
お手柔らかに~~デス(笑)
にわか勉強で有名なDreamは・・・?
ハイ!にわか古代史研究家をやってます。ナンテ(笑)
Dreamはパソコン速く打てないのですよ~^^;
プログラマーとかだったら速く打てないとダメですが・・・そうではないので、
まぁ~ええっか!!・・・・と思ってます。
やはり箸墓古墳が有力候補地ですか?
纏向は三輪山の稜線がきれいで古墳も多くあって、それに箸墓古墳も誰の
墓かも不明なんですね・・・
郷土史家の書はタイトルが悪いですね~
重みはあるかも知れないですが一般受けはしませんね!!
ハイッなんなりと聞いてください・・・ウッ嘘です~(汗)
なんせ臨時の古代史研究家ですので・・・^^;
お手柔らかに~~デス(笑)
Posted by Dream
at 2010年05月22日 18:58
