近江(滋賀)を考える Vol.2
2010年05月02日
<古代編>
鉄
前号(Vol.1)では近江は米の国である事を紹介させて貰いましたが、近江は鉄の国でもあったのですね。
鉄は弥生時代から日本に入っています。鉄の起源は今のトルコの黒海海岸で中央アジアから韓半島に入
り日本海経由で丹後に入り、敦賀及び若狭から琵琶湖近江に入って来たようです。
近江は古くから鉄鉱石の産地でもあり古代の近畿最大の鉄生産国でもありました。
「砂鉄の採れる出雲や吉備、播磨などが先進地だと考えられていたようですが良質の鉄鉱石が採掘できた近江が鉄製産技術を確立したようで60ケ所以上の製鉄遺跡が発見されています。
特に北東の伊吹山・金糞山、湖北のマキノ、西浅井には多くの遺跡があり湖北は重要な鉄の拠点になっていたのだと思います。
そう云えば・・以前グループで車で若狭までレジャーに出掛けた事があります。
その時、仲間の一人がマキノ辺りでこの山が鉄鉱山だと教えてくれた事を思い出しました。
採掘跡の山肌があったような無かったような・・ですがその山の形は記憶に残っていますが
、私は最近まで近江(滋賀)が鉄の産地だった事は余り意識していませんでした。
この近江の鉄製産は9世紀頃まで続いたようです。
鉄と云えば、近江には二つの鉄集団とも言える豪族が勢力を誇っていました。
旧坂田郡を拠点とし琵琶湖北東部を勢力圏とした息長氏と、琵琶湖西岸を拠点とし勢力を張った和邇氏の存在です。
和邇氏は北朝鮮と中国との国境沿いにある和邇という所の出身のようで朝鮮語で和邇は鉄を意味するようです。
和邇氏の同族・氏族には春日・櫟井(いちい)吉田・真野・丸部(わにべ)・丈部(はせかべ)大宅・物部・柿本(かきのもと)布留・小野などがあります。
特に小野氏は初の遣隋使となった小野妹子を出した名門です。(現、大津市志賀町)
琵琶湖西岸には北から和邇・小野・真野と三つの村が連なっている事も良く知られています。
息長氏と和邇氏、共に鉄の技術集団でもあり共に天皇家に多くの妃を送り出している事など多くの共通点があります。
この二つの勢力は琵琶湖の水利権をめぐって対立していたとも言われています。
このように近江は米の国であると共に鉄の国でもあったのですね。
文明の基ともなる鉄、この鉄文化が琵琶湖を介して東西へと広がって行ったのですね。
古墳
近江(滋賀)では大きな墳墓は見当たりませんが古墳の集中している所は多くあります。
特に規模の大きいのは守山・野洲の一帯と大津、滋賀里辺りから皇子山、逢坂山~へと続く山沿いに細長く広がっています。
その他、中規模では旧の八日市市、安土町、能登川・五個荘町付近、湖北町、安曇川町、長浜市などがあります。
弥生後期から古墳時代にかけて前方後円墳など大型化して行ったようですが近江では前方後円墳は少なく、あっても小さなもののようです。
因みに前方後方墳は近江が発祥だそうです。
滋賀県では唯一の天皇稜に弘文天皇陵が大津にあります。
弘文天皇と言っても分かりにくいかも知れませんが、時の神様として知られる天智天皇の皇子で大友皇子と言えば分かり易いかと思います。
唐使の劉徳高(りゅうとくこう)も驚いた程、この皇子は風貌良く容姿端麗で頭脳明晰であったにも天皇家一族の皇位をめぐっての骨肉の争い壬申の乱で悲運にも若き命を落とします。
ところが、この大友皇子・・・天智天皇より太政大臣を任命され実質的に即位しているにも拘らず弘文天皇の諡号(しごう)を贈られ皇位に列せられたのは明治3年の事なのです。
まさに歴史は 「戦争勝利者側のもの」 なんですね~
『わが国の正史として最初に編纂された日本書紀はもとより、古事記も大体に於いて戦争勝利者側のもので、敗者の歴史からは程遠いものとみるべきである。』
天智天皇崩御と共に、当然、践祚(せんそ)遊ばした筈の大友皇子のことは、何等伝える処なく、反って
”兇徒瓦の如く解けぬ”と述べられて居り・・・
昔も今も、書き残された歴史の多くは敗者側のことは、他国に亡命した者が書き残す場合は別として、当然、勝者側に都合よく書き立てられることになる。
以上の青字の文は昭和55年当時の近江神宮の宮司・横井時常氏が古代近江王朝の全貌の書の中の序文で書かれているものを引用させてもらいました。
ここで『壬申の乱』天智天皇、天武天皇、女傑と評される女帝・持統天皇に関しても少し触れてみたいと思います。
追記をご覧下さい。
↓
鉄
前号(Vol.1)では近江は米の国である事を紹介させて貰いましたが、近江は鉄の国でもあったのですね。
鉄は弥生時代から日本に入っています。鉄の起源は今のトルコの黒海海岸で中央アジアから韓半島に入
り日本海経由で丹後に入り、敦賀及び若狭から琵琶湖近江に入って来たようです。
近江は古くから鉄鉱石の産地でもあり古代の近畿最大の鉄生産国でもありました。
「砂鉄の採れる出雲や吉備、播磨などが先進地だと考えられていたようですが良質の鉄鉱石が採掘できた近江が鉄製産技術を確立したようで60ケ所以上の製鉄遺跡が発見されています。
特に北東の伊吹山・金糞山、湖北のマキノ、西浅井には多くの遺跡があり湖北は重要な鉄の拠点になっていたのだと思います。
そう云えば・・以前グループで車で若狭までレジャーに出掛けた事があります。
その時、仲間の一人がマキノ辺りでこの山が鉄鉱山だと教えてくれた事を思い出しました。
採掘跡の山肌があったような無かったような・・ですがその山の形は記憶に残っていますが
、私は最近まで近江(滋賀)が鉄の産地だった事は余り意識していませんでした。

この近江の鉄製産は9世紀頃まで続いたようです。
鉄と云えば、近江には二つの鉄集団とも言える豪族が勢力を誇っていました。
旧坂田郡を拠点とし琵琶湖北東部を勢力圏とした息長氏と、琵琶湖西岸を拠点とし勢力を張った和邇氏の存在です。
和邇氏は北朝鮮と中国との国境沿いにある和邇という所の出身のようで朝鮮語で和邇は鉄を意味するようです。
和邇氏の同族・氏族には春日・櫟井(いちい)吉田・真野・丸部(わにべ)・丈部(はせかべ)大宅・物部・柿本(かきのもと)布留・小野などがあります。
特に小野氏は初の遣隋使となった小野妹子を出した名門です。(現、大津市志賀町)
琵琶湖西岸には北から和邇・小野・真野と三つの村が連なっている事も良く知られています。
息長氏と和邇氏、共に鉄の技術集団でもあり共に天皇家に多くの妃を送り出している事など多くの共通点があります。
この二つの勢力は琵琶湖の水利権をめぐって対立していたとも言われています。
このように近江は米の国であると共に鉄の国でもあったのですね。
文明の基ともなる鉄、この鉄文化が琵琶湖を介して東西へと広がって行ったのですね。

古墳
近江(滋賀)では大きな墳墓は見当たりませんが古墳の集中している所は多くあります。
特に規模の大きいのは守山・野洲の一帯と大津、滋賀里辺りから皇子山、逢坂山~へと続く山沿いに細長く広がっています。
その他、中規模では旧の八日市市、安土町、能登川・五個荘町付近、湖北町、安曇川町、長浜市などがあります。
弥生後期から古墳時代にかけて前方後円墳など大型化して行ったようですが近江では前方後円墳は少なく、あっても小さなもののようです。
因みに前方後方墳は近江が発祥だそうです。
滋賀県では唯一の天皇稜に弘文天皇陵が大津にあります。
弘文天皇と言っても分かりにくいかも知れませんが、時の神様として知られる天智天皇の皇子で大友皇子と言えば分かり易いかと思います。
唐使の劉徳高(りゅうとくこう)も驚いた程、この皇子は風貌良く容姿端麗で頭脳明晰であったにも天皇家一族の皇位をめぐっての骨肉の争い壬申の乱で悲運にも若き命を落とします。
ところが、この大友皇子・・・天智天皇より太政大臣を任命され実質的に即位しているにも拘らず弘文天皇の諡号(しごう)を贈られ皇位に列せられたのは明治3年の事なのです。
まさに歴史は 「戦争勝利者側のもの」 なんですね~

『わが国の正史として最初に編纂された日本書紀はもとより、古事記も大体に於いて戦争勝利者側のもので、敗者の歴史からは程遠いものとみるべきである。』
天智天皇崩御と共に、当然、践祚(せんそ)遊ばした筈の大友皇子のことは、何等伝える処なく、反って
”兇徒瓦の如く解けぬ”と述べられて居り・・・
昔も今も、書き残された歴史の多くは敗者側のことは、他国に亡命した者が書き残す場合は別として、当然、勝者側に都合よく書き立てられることになる。
以上の青字の文は昭和55年当時の近江神宮の宮司・横井時常氏が古代近江王朝の全貌の書の中の序文で書かれているものを引用させてもらいました。
ここで『壬申の乱』天智天皇、天武天皇、女傑と評される女帝・持統天皇に関しても少し触れてみたいと思います。
追記をご覧下さい。
↓
【壬申の乱】
天智天皇時代・・兄(天智)を補佐し厳しい難局を兄と共に乗り切ってきた大海人皇子(後の天武天皇)は、皇位継承に期待が膨らんでいったようです。
それと言うのも天智天皇の大后の間には男子はなく卑母所生の大友皇子しかいなかった為だと言われています。
ところが天智天皇も初めは大海人皇子に皇位を譲位するつもりだったようなんですが、次第に大友皇子に愛が傾いたとかで・・・天智天皇十年正月に大友皇子を太政大臣に任命し皇位継承を直系男子へ権力委譲の構想を打ち出した為、思惑の違いから二人の間に確執が生まれ近江大津宮の酒宴の最中に大海人皇子が長槍で敷板を貫き不満をぶちまけたそうです。
天智天皇はこの非礼に憤慨して彼を殺すように命じたが中臣鎌足の仲裁で事なきを得た話は有名です。
その後、天智天皇が重態になった事により更に緊張感が増し、大海人皇子は殺される危険が迫ったので兄の病気平癒を祈るためと称し、出家した上で大津宮を脱し吉野に入る。
そして天智天皇が没し、後継の大友皇子が葬儀などで忙殺されている機をみて挙兵し、ついに瀬田の唐橋も攻め落とし、追い詰められた大友皇子は自害して果て、その首は大海人皇子の元へ届けられたと云う。
武力で皇位を奪い取った大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し第40代、天武天皇となる。
即位後は一切、大臣を置かずに後に嫡妻となった後の持統天皇と共に二人三脚で中央集権的律令国家を推進し持統天皇の時代に完成を見る事となる。
ちなみに持統天皇は天智天皇の娘で夫である天武天皇は叔父にあたる。(近親婚?)
大海人皇子(天武)と飛鳥時代の歌人、額田王(ぬかたのおおきみ)の間に生まれた十市皇女(とおちのひめひこ)が悲劇の皇子・大友皇子の妃となり・・・(いとこ夫婦?)
額田王はのちに天智天皇に召される。(三角関係?)
な~んか複雑ですね~
<参考>壬申の乱で天智天皇の大津京は弘文天皇も含め5年4ヶ月という短い期間で終焉となりました。
★近江(滋賀)を考える・・・は、まだまだ続きます。
次号は志賀・高穴穂宮のご紹介など・・また今後、中世の近江や近江商人なども紹介させて頂こうと思 っています。
・・・が一時中断して次回は邪馬台国論争・邪馬台国近江説について私の感想を少し述べさせて頂こうかと思っています。
乞う!!ご期待を~なんて
天智天皇時代・・兄(天智)を補佐し厳しい難局を兄と共に乗り切ってきた大海人皇子(後の天武天皇)は、皇位継承に期待が膨らんでいったようです。
それと言うのも天智天皇の大后の間には男子はなく卑母所生の大友皇子しかいなかった為だと言われています。
ところが天智天皇も初めは大海人皇子に皇位を譲位するつもりだったようなんですが、次第に大友皇子に愛が傾いたとかで・・・天智天皇十年正月に大友皇子を太政大臣に任命し皇位継承を直系男子へ権力委譲の構想を打ち出した為、思惑の違いから二人の間に確執が生まれ近江大津宮の酒宴の最中に大海人皇子が長槍で敷板を貫き不満をぶちまけたそうです。
天智天皇はこの非礼に憤慨して彼を殺すように命じたが中臣鎌足の仲裁で事なきを得た話は有名です。
その後、天智天皇が重態になった事により更に緊張感が増し、大海人皇子は殺される危険が迫ったので兄の病気平癒を祈るためと称し、出家した上で大津宮を脱し吉野に入る。
そして天智天皇が没し、後継の大友皇子が葬儀などで忙殺されている機をみて挙兵し、ついに瀬田の唐橋も攻め落とし、追い詰められた大友皇子は自害して果て、その首は大海人皇子の元へ届けられたと云う。
武力で皇位を奪い取った大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し第40代、天武天皇となる。
即位後は一切、大臣を置かずに後に嫡妻となった後の持統天皇と共に二人三脚で中央集権的律令国家を推進し持統天皇の時代に完成を見る事となる。
ちなみに持統天皇は天智天皇の娘で夫である天武天皇は叔父にあたる。(近親婚?)

大海人皇子(天武)と飛鳥時代の歌人、額田王(ぬかたのおおきみ)の間に生まれた十市皇女(とおちのひめひこ)が悲劇の皇子・大友皇子の妃となり・・・(いとこ夫婦?)

額田王はのちに天智天皇に召される。(三角関係?)

な~んか複雑ですね~

<参考>壬申の乱で天智天皇の大津京は弘文天皇も含め5年4ヶ月という短い期間で終焉となりました。
★近江(滋賀)を考える・・・は、まだまだ続きます。
次号は志賀・高穴穂宮のご紹介など・・また今後、中世の近江や近江商人なども紹介させて頂こうと思 っています。
・・・が一時中断して次回は邪馬台国論争・邪馬台国近江説について私の感想を少し述べさせて頂こうかと思っています。
乞う!!ご期待を~なんて

(尚、コメント頂いた場合すぐにお返事が出来ない場合もありますので悪しからずご了承下さい。)
Posted by Dream at 08:08│Comments(12)
この記事へのコメント
こんばんは~♪
GWはお天気に恵まれましたが、如何お過しでしたか・・・
よく調べて居られ、分かり易く書いて頂きありがとう御座います。
それにしてもDreamさんよく勉強されていますね。これだけの文章にまとめるのも流石です~♪
古代は謎の部分が沢山ありますので、興味の尽きない面白い時代です!
コピーさせて頂きますね~^^
確か 黒岩重吾?(漢字を忘れました)の著書「天かける白日」?これも漢字を忘れましたが・・・この本読まれた事ありますか?随分前の本ですが 草壁皇子を書いてます、なかなか面白かった事を思い出しました~♪(貸した本が返ってなくてうる覚えです^^;)
次回 邪馬台国近江説お待ちしています~♪
GWはお天気に恵まれましたが、如何お過しでしたか・・・
よく調べて居られ、分かり易く書いて頂きありがとう御座います。
それにしてもDreamさんよく勉強されていますね。これだけの文章にまとめるのも流石です~♪
古代は謎の部分が沢山ありますので、興味の尽きない面白い時代です!
コピーさせて頂きますね~^^
確か 黒岩重吾?(漢字を忘れました)の著書「天かける白日」?これも漢字を忘れましたが・・・この本読まれた事ありますか?随分前の本ですが 草壁皇子を書いてます、なかなか面白かった事を思い出しました~♪(貸した本が返ってなくてうる覚えです^^;)
次回 邪馬台国近江説お待ちしています~♪
Posted by パル
at 2010年05月05日 20:05

>パルさん、こんばんは~♪
本当にGWに恵まれましたね~^^
Dreamはと言いますと・・・ゴールデン雑務を楽しんでおりました。(笑)
「天かける白日」は読んだ事はないのですが・・・(^^;)
系譜を見ていると草壁皇子と言えば(天武)(持統)天皇の皇子で妃が
天智天皇の皇妃で(後の元明天皇)・・・
つまり草壁皇子は自身の子が42代文武天皇となり、次に皇子の妃が
43代元明天皇となり草壁皇子自身は天皇になれなかった訳で・・・
文武天皇は、おばあちゃん子で持統天皇という保護者(笑)付いていた
ようで何か訳有りって感じもして・・・草壁皇子の存在、人物像なにか面白
そうだなって感じがします。(⌒‐⌒)
それからDreamは本来怠け者なんですぅー(^^;)
それで計画性もなく必要に迫られたら勉強をするタイプのようで、
そのせいか?ここまで、
まとまりのないズタズタの人生になっています。(笑)
でも、懲りずに又ヨロシクです。^^
本当にGWに恵まれましたね~^^
Dreamはと言いますと・・・ゴールデン雑務を楽しんでおりました。(笑)
「天かける白日」は読んだ事はないのですが・・・(^^;)
系譜を見ていると草壁皇子と言えば(天武)(持統)天皇の皇子で妃が
天智天皇の皇妃で(後の元明天皇)・・・
つまり草壁皇子は自身の子が42代文武天皇となり、次に皇子の妃が
43代元明天皇となり草壁皇子自身は天皇になれなかった訳で・・・
文武天皇は、おばあちゃん子で持統天皇という保護者(笑)付いていた
ようで何か訳有りって感じもして・・・草壁皇子の存在、人物像なにか面白
そうだなって感じがします。(⌒‐⌒)
それからDreamは本来怠け者なんですぅー(^^;)
それで計画性もなく必要に迫られたら勉強をするタイプのようで、
そのせいか?ここまで、
まとまりのないズタズタの人生になっています。(笑)
でも、懲りずに又ヨロシクです。^^
Posted by Dream
at 2010年05月08日 21:32

こんばんは~^^
ながいことご無沙汰いたしておりましたm(^^)m
本日やっと復活しました♪
ただいま~^o^/
ぼっちぼちの更新になるかと思いますが
また拙い文章でブログを再開いたしますm(^^)m
どうぞよろしくお願いします♪
近江を考えるを読ませていただき
私は滋賀に住みながら滋賀のことなんにも
わかってない・・・お恥ずかしい。
Dreamさんの記事で勉強させていただきます
ためになる記事を書いてくださりありがとうございます*^^*v
ながいことご無沙汰いたしておりましたm(^^)m
本日やっと復活しました♪
ただいま~^o^/
ぼっちぼちの更新になるかと思いますが
また拙い文章でブログを再開いたしますm(^^)m
どうぞよろしくお願いします♪
近江を考えるを読ませていただき
私は滋賀に住みながら滋賀のことなんにも
わかってない・・・お恥ずかしい。
Dreamさんの記事で勉強させていただきます
ためになる記事を書いてくださりありがとうございます*^^*v
Posted by *美〜湖*
at 2010年05月08日 22:04

Dreamさん おはよう!
お久しぶりのコメントです〜♪見事な文章力ですね。普段着の(イチビリ)?は世を忍ぶ仮の姿ですか(笑)近江が「鉄の故郷」とは‥!いやいや驚き入りました。しかし「名は体を現す」とは、良く行ったものですね〜♪和邇や真野や小野等が渡来人の一族に由来してることが良くわかりました。安曇川が渡来人の安曇一族に由来してる事などは長野県安曇野との関係など少しかじりました(笑)大津に"渡来人の館"があるのに行けてません(泣)先の近江は"米の故郷"も勉強になりました。地名・人・風土に表れた言葉が歴史の名残を表し文明・文化を表していること、歴史は勝者の側から語られるなどその通りですね。その意味で記事にされた「近江八幡と安土の合併」の呼び名には、そもそも「平成の合併」に意味があったのか?が問われたように思いましたが‥まとまらず(笑)コメント遠慮しました。
よい学びになってます。更に期待して‥♪
お久しぶりのコメントです〜♪見事な文章力ですね。普段着の(イチビリ)?は世を忍ぶ仮の姿ですか(笑)近江が「鉄の故郷」とは‥!いやいや驚き入りました。しかし「名は体を現す」とは、良く行ったものですね〜♪和邇や真野や小野等が渡来人の一族に由来してることが良くわかりました。安曇川が渡来人の安曇一族に由来してる事などは長野県安曇野との関係など少しかじりました(笑)大津に"渡来人の館"があるのに行けてません(泣)先の近江は"米の故郷"も勉強になりました。地名・人・風土に表れた言葉が歴史の名残を表し文明・文化を表していること、歴史は勝者の側から語られるなどその通りですね。その意味で記事にされた「近江八幡と安土の合併」の呼び名には、そもそも「平成の合併」に意味があったのか?が問われたように思いましたが‥まとまらず(笑)コメント遠慮しました。
よい学びになってます。更に期待して‥♪
Posted by 風 at 2010年05月09日 07:43
*美〜湖*さん、こんばんは~♪
おかえりぃ~お久しぶりですね^^
今日、復活後のブログ見せて貰いました、すでにダッダッと更新されていて
*美〜湖*さんの喋くりも(笑)復活していて良かったぁ~♪^^
返事遅くなってゴメンナサイ(ペコリ)
今、近江を考えるを書いて自分自身、勉強しているところです。
また気が付かれた事があればアドバイスして下さい。
例えば、ここはちょっと違うぞ?・・・とか
こんな事もあるよとか・・・ヨロシクです。^^
おかえりぃ~お久しぶりですね^^
今日、復活後のブログ見せて貰いました、すでにダッダッと更新されていて
*美〜湖*さんの喋くりも(笑)復活していて良かったぁ~♪^^
返事遅くなってゴメンナサイ(ペコリ)
今、近江を考えるを書いて自分自身、勉強しているところです。
また気が付かれた事があればアドバイスして下さい。
例えば、ここはちょっと違うぞ?・・・とか
こんな事もあるよとか・・・ヨロシクです。^^
Posted by Dream
at 2010年05月12日 21:22

近江に製鉄が入り、盛んに行なわれていたのですね。
瀬田で鉄サミットがあり、立命館大学の校庭の下に遺跡があり、昔の方はすごいことに挑戦をしてたと思ったが、伊吹山・金糞山、湖北のマキノ、西浅井にもあると聞き、2度ビックリです。
瀬田で鉄サミットがあり、立命館大学の校庭の下に遺跡があり、昔の方はすごいことに挑戦をしてたと思ったが、伊吹山・金糞山、湖北のマキノ、西浅井にもあると聞き、2度ビックリです。
Posted by ノンノン
at 2010年05月12日 22:02

風さ~ん、おそくなりましたぁ~(>.<)
世を忍ぶ仮の姿ですか?^^
かっこいいけど、やっぱり根がイチビリだって誰かさんに言われてます。(笑)
それにイチビリも文化だと確か風さんに教えて貰って・・・ないか?(^^;)))
安曇川と安曇野の名前が似てるとは思っていたのですが、やはり関係があったのですね?
あっ、そうそう大津に"渡来人の館"があるらしいですね、最近知りました。
機会があれば一度行ってみたいですね、新しい発見があるかも知れないし・・
「平成の大合併」・・国が制度なので仕向けた感がありますね。
メリット・デメリットさまざまかも知れませんが近江八幡と安土、そんなに無理をしなくても良か
ったのではないのかとも思いますね。
返事おそくなりペコリです。m(__)m
世を忍ぶ仮の姿ですか?^^
かっこいいけど、やっぱり根がイチビリだって誰かさんに言われてます。(笑)
それにイチビリも文化だと確か風さんに教えて貰って・・・ないか?(^^;)))
安曇川と安曇野の名前が似てるとは思っていたのですが、やはり関係があったのですね?
あっ、そうそう大津に"渡来人の館"があるらしいですね、最近知りました。
機会があれば一度行ってみたいですね、新しい発見があるかも知れないし・・
「平成の大合併」・・国が制度なので仕向けた感がありますね。
メリット・デメリットさまざまかも知れませんが近江八幡と安土、そんなに無理をしなくても良か
ったのではないのかとも思いますね。
返事おそくなりペコリです。m(__)m
Posted by Dream
at 2010年05月13日 18:52

ノンノンさん、こんばんは~!!
立命館大学の校庭にもありましたか・・・製鉄遺跡?
近江の鉄生産は湖北を中心に段々と南下して行ったようです。
湖南市の方にも少しあるらしく大津にもあるようです。
古代の近江は鉄や米などで多くの人が集まり琵琶湖が文化の結節点になっていたようです。^^
立命館大学の校庭にもありましたか・・・製鉄遺跡?
近江の鉄生産は湖北を中心に段々と南下して行ったようです。
湖南市の方にも少しあるらしく大津にもあるようです。
古代の近江は鉄や米などで多くの人が集まり琵琶湖が文化の結節点になっていたようです。^^
Posted by Dream
at 2010年05月13日 19:13

凄い! Dreamさんの博識と郷土愛に、感激しました。
いつの時代も、勝者や権力者に都合のよい体制や史料が残されるようですね。
じっくりと読んで、勉強させていただきます。次回を楽しみにしています。有り難うございます。
いつの時代も、勝者や権力者に都合のよい体制や史料が残されるようですね。
じっくりと読んで、勉強させていただきます。次回を楽しみにしています。有り難うございます。
Posted by 夢想花
at 2010年05月16日 16:29

立命館大学で、希望すれば見せてくれるようですよ。
校庭の中腹から鍵を開けてくれ、丸い煙突のような所の階段を下りたら、広い木瓜原遺跡といって、製鉄があります。
まるで、映画の1シーンにでも入ったかと錯覚するような所でした。
機会があったら、是非覗かれては・・・
校庭の中腹から鍵を開けてくれ、丸い煙突のような所の階段を下りたら、広い木瓜原遺跡といって、製鉄があります。
まるで、映画の1シーンにでも入ったかと錯覚するような所でした。
機会があったら、是非覗かれては・・・
Posted by ノンノン
at 2010年05月16日 23:50

夢想花さん、こんばんは~♪
私は博識でもなく郷土愛でこの記事を書いてるのではありませんで(^^;)
只、例えば近江商人が生まれた要因
この近江に高度な古代文明が存在した事など
必ず背景となるものや素地がある筈と探り自分自身のため勉強しているだけです。^^
博学と言えば夢想花さんに優る者はおりませんで、必ず良きご指導が頂けるものと
期待しております。
どうぞ、よろしくお願い致します。m(__)m
私は博識でもなく郷土愛でこの記事を書いてるのではありませんで(^^;)
只、例えば近江商人が生まれた要因
この近江に高度な古代文明が存在した事など
必ず背景となるものや素地がある筈と探り自分自身のため勉強しているだけです。^^
博学と言えば夢想花さんに優る者はおりませんで、必ず良きご指導が頂けるものと
期待しております。
どうぞ、よろしくお願い致します。m(__)m
Posted by Dream
at 2010年05月19日 20:11

ノンノンさん、こんばんは~♪
ご案内、ご親切にありがとうございます。^^
立命館大学の校庭にあるなんて・・・
実物の教材が備わっているのですね(笑)
お陰さまで滋賀県のこと調べていたら少しずつ滋賀県てどんな所なのか
分かって来たような気がします。
機会があれば立命館行かせて貰いますね~^^
ご案内、ご親切にありがとうございます。^^
立命館大学の校庭にあるなんて・・・
実物の教材が備わっているのですね(笑)
お陰さまで滋賀県のこと調べていたら少しずつ滋賀県てどんな所なのか
分かって来たような気がします。
機会があれば立命館行かせて貰いますね~^^
Posted by Dream
at 2010年05月20日 14:33
